今日頭の中をグルグルしてたこと

5月に狂ったようにジブリを観た。10本観た。いや、「メアリと魔女の花」はジブリではないから厳密には9本。実際、この映画はジブリに限りなく近いがジブリではない別のものだと感じた。こんなにジブリを観た理由はとても滑稽で、「魔女の宅急便」を観ようとprime videoを開いたらジブリが存在しなかったことにカチンと来てGEOに向かい、せっかくならと大量に借りてきたのだ。

ジブリで特に感動したのは「耳をすませば」と「思い出のマーニー」の2本。「耳をすませば」では主人公が好きな人とは違う夢の追い方を選ぶシーン、「思い出のマーニー」では2人の関係性が分かるシーンで涙が止まらなかった。「思い出のマーニー」では、主人公が電車に乗る序盤のシーンも涙が出てくる。「おもひでぽろぽろ」もとても良かったが、正直二度と見たいとは思えないくらい回想シーンが苦しかった。

映画を観るときは映画を楽しむ気持ちを損なわない程度に音に気を遣って観ているが、ジブリの映画を観ていてびっくりしたのは「風立ちぬ」の効果音だ。「風立ちぬ」の効果音は明らかに「生き物」だった。関東大震災のシーンでは地響きが鳴り渡り建物がきしむが、明らかに大地が咆哮し、木造建築が悲鳴をあげているのだ。観てもらえば分かるが比喩ではない。明らかに、地球という大怪獣がか弱い建築物を襲っている。そして飛行機。「風立ちぬ」の日本の飛行機はとにかく発展途上で、それとは真逆に主人公達が見学したドイツの飛行機は素晴らしいものとして描かれている。それらは音も対照的で、ドイツの飛行機の音は落ち着いて呼吸しているが、日本の飛行機が故障するとエンジンがむせたり咳き込んだりする。もちろん比喩ではない。

何年前の映画をレビューしているんだという話だが、初めて観たのが先月だから仕方がない。許してほしい。先月この映画を観た時には「ここまで効果音は大胆に作り上げて良いのか、アニメ映画だからなのか」と感動したのだ。

5月にこの映画を観たわけだが、6月になった今急いでブログに書いている理由は、ついさっきたまたま観た(本当にたまたま、ジブリがまた映画館でやるらしくてジブリの色んなサイトを眺めていた)「風立ちぬ」の公式サイトにこの「生き物」の話が書かれていたのだ。

プロダクションノート - 映画『風立ちぬ』公式サイト

こだわりの音
今作でSEと呼ばれる効果音を人の声で表現することに挑戦している。

びっくりした。そもそも先月驚愕した段階でこの映画の効果音について調べなかった自分にも驚愕したし、いやそんなことはどうでも良くて、自分が感動した音のこだわりが、他にもいくらでもあるだろうこだわり達を差し置いてHPに載っていたことに驚いた。あそこまで明らかに効果音に命を吹き込むのは、きっと大冒険だったに違いない。

音に命を吹き込む、なんて魅力的なんだろう。魅力的なのは無機物が出す音だけではない。世界中のSF映画やホラー映画でこの世に存在しない生き物の鳴き声が作り出されている。読んだ本についてはまた別の記事にするが、デイヴィッド・ゾンネンシャイン著の「Sound Design 映画を響かせる「音」のつくり方」という本ではSTAR WARSのチューバッカの鳴き声がどのようにして作られたかがインタビューされている。

もっと言うと、命を吹き込もうというより、音というものを生きているかのように捉える人たちがいる。部屋の響きは「ライブ(=よく反響する)」「デッド(=反響しない)」と表現される。「この部屋は音を生かす(殺す)」なのか「この部屋では音は生き生きしている(すぐ死ぬ)」なのかは自分には分からないが、音に対して命に関する単語を用いている。今読んでいるトレヴァー・コックス著の「世界の不思議な音 奇妙な音の謎を科学で解き明かす」ではそれに関して、音の反響時間に「寿命」という言葉を使っている(原文は読んでいない。原文では違う場合、訳者の田沢恭子さんの言葉ということになる)。ミシェル・シオンは「映画にとって音とはなにか」において「音は、映画において、自らの場を探すものだ。」と言う。他にも探せば音楽の感想や紹介文の中にいくらでも出てくるだろう。

では、音を生きているかのように扱う人達は見つかったが、「音は生きている!」と断言する人はいるのだろうか。場合によってはいると思う。「あの人のバイオリンの演奏は生きている」なんて話ならいくらでもあるだろうし(生きているかのように扱っている場合も多いだろうが)、少し趣旨は違うかも知れないがA(赤ちゃんの泣き声)とB(サイレン)を聞かせて「Aの音は生きている?」と聞けば「生きている」と答えてくれる人はいると思う。ただ、今自分が言いたいのはそういうことではなく、Bの音を含めた、この世界で鳴っては消えてゆく音達は生きているのかということだ。さすがに違うだろうか。Wikipedia大先生には生物の定義の欄に細胞がどうのこうのと書いてあったから違うかもしれない。でも、「風立ちぬ」など上に述べたものを見て興奮している今の自分は、「さすがに違うだろう」とは言いたくなくなっている。

細胞があれば生き物なら、たとえば科学の力で亀の甲羅に溝を掘ってレコードプレーヤーの針で読み取って音を出すことが出来たらその亀の甲羅は生きた音楽と言えるだろうか。実行したら絶対に友達がいなくなるからやらないが、それは実際どうなのだろうか。結局亀が生きているだけで亀から出る音楽は生きてはいないのだろうか。そもそもこのやり方が認められたとしてもそれは上に述べたAの音が生きているというだけであってBの音については解決していない。

そもそも亀の甲羅は音楽になるのか。CDから再生して耳に入る音は音楽だが、CDが記録しているデータは音楽なのか。CDが記録しているのがジョン・ケージ4分33秒ならCDを再生せずともそのCDを触る音や聴き終わった後の感想も音楽として含めても許してもらえる「かも」しれないが、CDが記録しているのが「風立ちぬ」のサウンドトラックで、友達と「サントラ買っちゃったんだよ(CDを棚から出すときに隣のCDと擦れる音)」「マジか(CDを受け取る際に爪とケースが当たる音)」と会話したところでそれが「風立ちぬ」のサウンドトラックになるはずがない。再生されていない音楽は音楽なのか。シュレディンガーの猫みたいだ。

頭の中で流れているものはまだ再生されていないCDよりも音楽かもしれない。想像するだけで脳の聴覚野が働いているという話を聞いたことがあるようなないような気がする。

今は取り敢えずこの辺をグルグルしている。これ以上の考えの発展はあるかもしれないし無いかもしれない。「音が生きているかどうか」にかなり話が寄ったが、少し話を戻すと、少なくとも「音を生きているかのように扱う」「音に命を与える」ことに関して反対意見はそうそう無いと思う。あるかもしれない。「生き物以外を生きているかのように扱うのは生き物に失礼だ」という考えがもしかしたら世界にはあるかもしれない。だが自分は「音が生きているかどうか」には何とも言えないが、それ以前の話については何と言えば良いのか、賛成というか、感銘を受けた。これから音を扱って何かをするときはそのスタンスを忘れないようにしようと思う。

あと、もし「音は神様です」みたいな宗教があったとしてもそういうのに入る予定はない。